第十三章

喫茶室(雑学あれこれ)

よろしかったら、お休みになりながら、陶芸に関する豆知識などを拾ってみて下さい。

  1.淡路(民平)焼きについて    私の故郷は淡路島です、この島の賀集(地名)で江戸後期に民平が 起こした焼き物の里がありました。    現在、窯は廃れましたが、技術はこれを前身としたタイル専門の 「淡陶株式会社」に引き継がれています。 淡路焼(民平焼) 文政年間(1818-30)、兵庫県淡路島三原郡稲田村(南淡町伊賀野-賀集)の賀集民平が 創業した。 民平は幼名を豊之助といい代々稲田村に住み所有地18町(18h)もあり、醤油醸造 を業としていた。 性格は先進的であり、常々『淡路は四方を海に囲まれ土地が狭く人が多い、これが貧困 者の多い理由であり、これを救うには海産を盛んにすることにある』と言っていた。 そして、二百六、七十人の漁夫を使って近海漁業を行ったが利益が上がらず、そこで和 泉の国(大阪府)に行って大網の製造し、ますます漁業に努めた。 ここで偶然京都の尾形周平に遭い製陶のことを話し合い、後に淡路の由良に行った帰り に池ノ内村の白土山麓に来たとき周平の話を思い出し試みに白土を持ち帰り楽焼きの茶 碗を数十個造った。また、黄南京を模作しょうと試みたがうまくいかなかった。 その後、漁業はますます損失が大きくなり、ついには廃業を決意したが、楽陶の方はや や堅硬な器を作るようになっていた。 1829(文政12)には醤油の本業もやめ、もっぱら製陶に従事して黄色、青色の釉薬を 発明している。 1834(天保5)には京都から周平を連れてきて共に陶事を研究したが、二年で周平は去 った。民平はますます熱心となり、所有の土地を売って資金にあてた。 村長の弟や親族もこれらを応援した。その後、1838年には茶褐釉,鬱白陶を創製した。 1842には藩主蜂須賀氏はこれを聞いて度々視察し資金を出して官窯を築き、民平に統括 させた。 1843には中国青花陶、絵高麗、艶黒の諸釉を発明している。このころには初期に制作し た黄彩陶が遠近に売れて一時は売り上げが近隣十一け村の収穫した米価に相当したとい われる。 その後、一時不況になった時期もあったが、民平の子の三平が官窯を買って独立した。 その子力太が病弱で廃業しかかったが、これを惜しんで、袴田善次郎が本窯を買い上げ (1883)て回復した。 民平焼きは田村久平が洲本に窯を起こし、1897(明治30)頃にはおのころ焼、茶金釉など を出した。 淡路焼きはその規模を拡大し、また品種を一新して近年はタイルの専門製造に移ってい った。現在の淡陶株式会社はその後身である。 民平の作品は土質が柔らかく、彩画が鮮やかで、京都粟田焼に似ていると評される。                                                 (出典:加藤唐九郎編-陶磁器大辞典)
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